湘北高校バスケット部のロッカー、かく語りき

 はじめまして、ロッカーです。
 ……そんなに驚かなくても。ロッカーだってたまには喋りますよ。
 いいですか、続けても。では気を取り直して。

 私はロッカーです。
 湘北高校バスケット部の部室、そこが私の居場所です。
 ほとんどの部員は私を大事に扱ってくれますが、時には殴られたり、蹴られたりすることもあります。私がいくらスチール製でも、そんな時は腹立たしい。ですが、チームメイトを殴るよりは遥かにマシですし、彼らは毎日とてもがんばっていますからね。悔しさは努力の証です。
 でもね、ロッカーをなめちゃあいけません。なにせ人間は、なんでも私に隠せば安心だと思っている節があります。
 たとえば、一年生の桜木くんが上段に突っ込んだままの赤点のテスト。二年生の宮城くんが彩子さんに渡せなかったいつかの手紙。ね、私はちゃんと知っています。
 もちろん、本当に大切な秘密は守りますので、ご安心ください。

 さて、長い時間をこの部屋で過ごし、私にもずいぶん、忘れられない思い出が増えました。今日は皆さんに、そのひとつをお話ししようと思います。

   Day 1

 彼――三井くんが久しぶりに現れたとき、私はその変わりようにとても驚きました。

 学生服を着、松葉杖を突きながら部室に入ってきた彼は、生気のない表情をしていました。
 いつもぴんと伸びていた背中は丸まり、以前はきちんとしていた髪もずいぶん伸びています。学生鞄は持ちにくいのでしょう、リュックサックを背負っていましたが、中身はほとんど空のようでした。
 今しがたは授業の最中で、体育館も使われていません。この辺りには彼以外、人の気配はありません。
 授業をサボり、わざとこの時間を選んだのだな、と思いました。
〈三井〉と記された扉の前で、彼は私――ロッカー――を睨みました。長い前髪の隙間から、憎しみに溢れた瞳が覗きます。
 部室には、着替えや休憩の際に使えるよう、教室用の椅子が何脚も無造作に置かれています。彼は松葉杖を近くの椅子に立て掛け、その隣の椅子にリュックを置き、ファスナーを開けました。そして乱暴に扉を開け、荷物を次々に出し始めました。
 Tシャツ、バスケットパンツ、ジャージ、タオル、制汗剤……。手に取る物の一つひとつに怒りをぶつけるように、服を畳み直すこともせず、手当たり次第に詰め込んでいきます。
 ――ああ、彼はもう二度と部活に来ないに違いない。
 私はそう思いました。残念ながら、この部室を去っていく子は毎年少なくありません。ですが三井くんの様子は、その子たちともどこか違う気がしました。
 彼は膨らんだリュックサックを力任せに閉めると、再び私を睨みつけました。頬は紅潮し、呼吸は浅く、前髪に隠れてよく見えない表情は、怒りと不安と恐怖を行ったり来たりしているように思えました。
 三井くんの少し震える両手が、残っていた一冊の雑誌を掴みました。
 それはバスケットボールの専門誌で、彼がかつて、自慢げにチームメイトに見せていたものでした。よく開くページにはすっかり折り癖が付いていて、そこには彼が中学の県大会で優勝した時の記事が載っていました。
 ユニフォーム姿でシュートを放つ彼の写真には、『今大会MVPに選出された武石中三年の三井寿。ブザービーターで逆転優勝を決めた』と説明がありました。
 扉の内側には一枚の写真が貼ってありましたが、そちらも同じ大会のものでした。
 三井くんは、左足を地面から浮かせ、器用に片足跳びで部室を横断すると、入り口近くにある金属製のゴミ箱に雑誌を放り込みました。
 鈍くこもった音が部室に響き渡ります。ゴミ箱の脇に並んでいた清涼飲料水の空き缶が一本、振動で横に倒れました。
 再び片足跳びで戻ってきた彼は、扉の写真とネームプレートを手荒く外しました。
〈三井〉と書かれた名札と、写真の中で嬉しそうに笑うかつての自分。三井くんは二枚の紙をしばらく見つめていましたが、やがて彼の両手は、力を込めてそれらを丸め、ゴミ箱へ投げました。
 必要以上にぎゅうぎゅうと丸められた紙玉は、じつに正確に目標へ飛んでいきました。結果にいっそう苛立ったのか、奥歯が擦れる音が聞こえました。
 そして三井くんは、扉を叩きつけるように閉め、リュックサックを背負い、松葉杖を突きながら、逃げるように部室を出ていきました。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、しばらくすると、廊下にどっと学生たちの気配が溢れました。
 その中から聴きなれた靴音がこちらに走ってきます。足音は部室の前で止まり、ドアノブががちゃりと音を立てました。
 眼鏡がトレードマークの一年生、木暮くんがいそいそと入ってきました。
 木暮くんは新入部員の中でも練習熱心で、授業が終わるといつも真っ先に部室に現れます。身体の大きな同級生の赤木くんと一緒に来ることも多いですが、今日は一人のようです。
「うわっ!」
 私の前に来ようとした木暮くんが突然足を滑らせ、尻もちを突きました。
「いったあ……誰だよ、危ないな」
 彼はずれた眼鏡を指で押し上げ、制服ズボンの尻をさすりながら立ち上がりました。どうやら床に転がっていた空き缶を踏んだようです。
 木暮くんはひしゃげた缶を拾い上げるとゴミ箱に向かいました。ゴミ箱の周りに空き缶が何本も並んでいます。缶のゴミ捨て場が部室から遠いため、ここに置いていく三年生がいるのです。
「またかよ……」
 木暮くんは不満げに呟きながら上半身を屈め、潰れた空き缶をゴミ箱の横に置きました。そして、そのままの姿勢で動きを止めました。一点を凝視しています。
 数秒ののち、はっとした様子でゴミ箱に手を入れ、雑誌を掴み、あわてて私を振り返りました。三井くんのネームプレートが無くなっていることに気づいたのでしょう。眉が八の字に下がっていきます。
 木暮くんはしばらく私を見つめていました。
 吹奏楽部の規則正しい基礎練習の音が、遠くから聴こえてきます。
 やがて木暮くんは俯き、ため息をひとつ、深く深く吐きました。雑誌の表面を丁寧に手で払い、私の前へとぼとぼと戻ってきました。

 木暮くんがしょんぼり練習着に着替えていると、ようやく赤木くんがやってきました。
「日直お疲れ、赤木」
「おう」
 赤木くんは返事をしながらも、木暮くんの元気のなさにすぐ気づいたようでした。
「どうした、木暮」
「……ああ……三井が……」
 木暮くんは語尾を濁しました。その視線を追い、ネームプレートの無い扉に突き当たった赤木くんは眉根をぐっと寄せました。硬い表情でこちらに向かってくると、黙ったまま、扉に手を掛けました。
 二人の前に現れたがらんどうの暗がりに、木暮くんがごくんと唾を呑みました。
「辞めたか」
 赤木くんの声は淡々としたもので、感情を隠そうと努めているようでもありました。
「それはまだ……分からないんじゃ」
「……これでもか?」
 赤木くんが空っぽのロッカーを指差すと、木暮くんはTシャツ姿の肩を落としてうなだれました。

   Day 2

 一年のうちで私が大好きな日が今年もやってきました。
 何の日かって? 部活を引退した三年生が荷物を片づけ、私の掃除をしてくれる日です。
 三年間見守ってきた子たちです。悲しさももちろんありますが、皆が心を込めて労ってくれるのは、やはり嬉しいものです。ろくに掃除もしない不届き者も中にはいますが。
 五月のインターハイ予選で敗退した湘北高校バスケット部は、二年生の赤木くんが主将、木暮くんが副主将になりました。
 三井くんが部活に来なくなってからというもの、バスケット部はずいぶん寂しくなってしまいました。
 三井くんと同じ武石中学の子たちが相次いで辞めていき、それからも、私には次々に空きが増えていきました。春になり、一年生が入ってきた時はどんなにほっとしたことでしょう。
 今、赤木くんと木暮くんは、現役の部員を集め、めいめいのロッカーを新体制に合わせて移動させるところでした。上級生になるほど使いやすい場所で着替えられるのです。
「おー、快適」
「やったね、リョータ」
 喜びの声を上げているのは、新入部員の宮城くんと安田くんです。彼らは同じ中学出身だそうで、一緒にいることが多いです。そのほかの部員たちも嬉しそうに荷物を移動させています。赤木くんと木暮くんは、三年生が使っていた窓際近くへと移りました。
 おや、赤木くんが木暮くんをもの言いたげに見ています。
「――木暮」
 木暮くんはロッカーを二つ確保していました。呼ばれたことに気づかないふりをしています。
「木暮」
 赤木くんの声が大きくなり、木暮くんはようやく振り向きました。
「いいだろ、部員が少なくて余裕あるんだから。それに……」
 木暮くんは声のボリュームをぐっと下げました。
「退部届はまだ出てない」
 木暮くんが言っているのは三井くんのことでしょう。彼はあの日から、部室にも体育館にも現れなくなりました。
 怪我をした左膝は良くなったようですが、最近は悪い仲間とつるんでいるようで、ここでも時々話題に上がります。しかしどうやら、三井くんがバスケット部の幽霊部員だということは、一年生は知らないようです。
 赤木くんは咎めるように木暮くんを見ましたが、木暮くんはぴくりとも揺らぎません。こんな時の彼がとても頑固なことを、赤木くんはよく知っていました。
「――勝手にしろ」赤木くんは呆れたようにそっぽを向きました。
「おまえら、大体終わったな」
「うーす」
 下級生に話しかけに行った大きな背中を見ながら、木暮くんは小さく息を吐き、自分のロッカーを探りました。
 そして、隣にある縦長の冷たい空間に、かつて三井くんが捨てていった雑誌をそっと置くと、静かに扉を閉めました。

   Day 3

 湘北高校バスケット部、激動の春でした。
 元気のあり余っている新入部員が二人もやってきました。私は彼らのタックルを何度食らったことか……。話したいことはたくさんありますが、ロッカーと違って人間の皆さんは忙しいですから、この一日を選びましょう。
 私はこの、五月のある日を思い出すたび、〈この部屋のロッカーに選ばれてよかった〉と心から思います。

 過去の卒業生が寄贈していった掛け時計を見上げながら、そろそろ部活が終わる時刻だなあと思っていると、予想通り、部室のドアが開きました。
 姿を見せたのは赤木くんと木暮くんです。二人とも三年生になりました。
「三井は体育館か?」
「一年と一緒。片づけと掃除してる」
 木暮くんの返答を聞いた赤木くんは、フンと鼻を鳴らしました。
「当然だ。それくらいはしてもらわんとな」
「そうだなあ」
 頷きながら、木暮くんは自分の私の前に立ちました。視線は自然とその隣に向かいます。
 ――そうです。三井くんが、二年の時を経てバスケット部に帰ってきたのです。もっとも、その前に大事件があったのですが……。
 しかしとにかく、三井くんはこの場所に帰ってきました。
 木暮くんは口元を綻ばせながら、持ち主の戻ってきたロッカー扉を開け、中に入れていた雑誌を外へ出し始めました。毎週購入しているバスケットボール雑誌のバックナンバーがどんどん溜まり、自分のロッカーに入り切らなくなっていたのです。
 赤木くんは何か言いたそうでしたが、結局は黙って着替え始めました。

「――で、プリント後ろに回した時にアヤちゃんがさあ!」
「リョータ、その話今日五回目だよ」
 二年生になった宮城くんと安田くん、その後ろから角田くんと潮崎くんもやってきました。椅子に雑誌を積み上げている木暮くんを見て、宮城くんが不思議そうに訊ねました。
「あれ? どーしたんすか急に」
「ああ、これはな――」
 木暮くんが説明しようとする前に、宮城くんの目が素早く部室の隅へと走りました。使い込まれたスポーツバッグが壁にぎゅっと寄せて置かれ、三井くんの学生服が畳まれて上に乗っています。視線を戻すまで一秒もかかりませんでしたが、その時にはもう納得の表情をしていました。勘の良い子です。
「そっか。だからそこ、ずっと空いてたんすね」
「ああ」
 木暮くんは微笑みながら頷きました。
「リョータ、どういうこと?」
「オレにも教えろ」
「あのロッカーはな――」
 宮城くんの解説を交えつつ、二年生たちが着替え始めました。
 赤木くんはとっくに着替え終わり、入り口近くの学生机に向かい、部の連絡ノートを開いています。木暮くんは新しい雑誌の置き場所を見繕おうと、辺りの棚を物色し始めました。

「掃除終わりましたあ!」「キソ練も終わったぞゴリ!」
 そこへ、一年生がぞろぞろと戻ってきました。
「おう、お疲れ」
「お疲れ様、ありがとう」
 赤木くんと木暮くんが口々に労います。
「腹減ったー」
「帰りどっか寄る?」
「あっ今日ジャンプ早売りじゃん」
「あの店まだ開いてるかな」
「チャリ飛ばしたら間に合うんじゃねえ?」
 会話が乱れ飛び、部室は一気に賑やかになりました。
「あれ? 三井は?」
 木暮くんの声に、一年生は揃って振り返りました。
「まだ体育館です」
「『まだ』?」
 佐々岡くんに訊き返した木暮くんに、今度は石井くんが答えました。
「『体育館の鍵をオレに預けろ……おまえらは構わず先に行け……』って言いながら横たわってました」
「ハリウッド映画か」
 すかさず宮城くんのツッコミが入ります。
「情けねえな全くよ!」と桜木くんが続け、「体力がねえ」と流川くんが呟きました。
「でも体力はともかく、コートでの動きはすごかったですね。さすが元MVPって感じで……」
 桑田くんの発言に皆の視線が集まります。ノートに向かう赤木くんがフンと鼻を鳴らしました。
「あれだけここを引っ掻き回した上に下手になっていたら許さん」
「まあまあ赤木、初日なんだし」
 木暮くんの言葉に、赤木くんのペンを持つ手が止まりました。
「木暮、おまえは甘すぎる!」
「別にそんなつもりじゃ」
 二人の間に不穏な空気が流れた時、部室の扉が唐突に開きました。噂をすればなんとやら、話題の主、三井くんです。
 フラフラと足取りのおぼつかない様子に、部員たちは思わず左右に道を開けました。
 めいめい口には出しませんが、戸惑いが伝わってきます。それもそのはずです。三井くんは昨日、あろうことか不良仲間を引き連れ、バスケット部を潰そうと殴り込んできたのです。
 その行動が〈もう一度バスケをしたい〉という想いの裏返しであり、最終的には丸く収まったとはいえ、体育館は盛大に汚され、何人もの部員が怪我を負わされたのです。思うところあって当然でしょう。三井くんも含め、ほぼ半数の部員があちこちに絆創膏を貼っていました。
 三井くんは壁際にあるボロボロのソファ――昔誰かが持ち込んだ物です――に崩れるように倒れ込みました。見かねた木暮くんが近づきます。
「大丈夫か、三井」
「見りゃ分かんだろ……大丈夫じゃ、ねえ……」
 全身の筋肉が悲鳴を上げているのか、三井くんは呻くように答えました。
 赤木くんがノートをパタリと閉じ、ソファの横に立ちました。
「フン、これしきでヘバるとはな」
「なんだと赤木」
 冷たく見下ろす赤木くんに、三井くんは低い声で凄みました。剣呑な空気に部室の温度が冷えていきます。木暮くんがおろおろし始めました。
「ああもうやめろよ二人とも」
 下級生の多くは私にピタリと背をつけ、息を殺して事態を見守っています。そんな中、桜木くんが三井くんの元へすたすたと歩み寄りました。
「初日からなかなかやるじゃないかミツイ君! この天才と一緒に体力づくり頑張ろうな!」
 桜木くんはそう言うと、愉快そうに三井くんの肩をバシバシ叩きました。その行動に部屋がざわめきます。三井くんは目を剝き、がばりと上体を起こしました。
「桜木てめえ!」
「なんだね」桜木くんは少しも動じません。
「一年坊が三年にその口の訊きか――う」
 気色ばむ三井くんが、突然両手で自分の口を塞ぎました。顔がみるみる青ざめます。
「どうしたねミツイ君?」
「……吐く」
「吐くのか!?」「ここで!?」
 ざわめく他の面々に、口を押さえた三井くんは弱々しく頷きました。
 次の瞬間、部室は一気に大騒ぎになりました。
「ゴミ箱! バケツ!」「タオルか何かないか!?」「これ使え!」
 灰色の塊が勢いよく三井くんの顔に飛んできましたが、余計顔色が悪くなったような……。
「バカヤロウそれ雑巾じゃねーか!」「逆効果だ!」「どあほう」「なんだとキツネ!」
「やめろ余計ややこしくなる!」「誰かトイレに連れてってやれ!」
 混乱と混沌の中、桜木くんがぐったりした三井くんを担ぎ、あたふたと廊下へ出ていきました。
 残された皆は脱力しながら、顔と顔を見合わせました。
「人騒がせな……」
「散々振り回しやがって……」
「どこまでも周りを巻き込むヤツだ……」
 愚痴をこぼしながらも、不思議なことに、誰もがかすかに口元をほころばせています。それは嘲笑ではなく、呆れと尊敬がないまぜになったもののように思えました。
「……下級生にあんな姿見せてまでさあ……諦め悪すぎでしょ……」
 宮城くんがポツリと呟き、しばらくして、ふっ、と笑いました。

 桜木くんと三井くんが戻ってきた時、部室にいるのは制服姿の赤木くんと木暮くんだけになっていました。
 赤木くんは共用のスチールキャビネットを片づけ中、木暮くんはソファで週刊バスケットボールの最新号を読んでいます。バックナンバーは、入り口から見て目の前のスチール棚、上から二番目の段に収まりました。これからは誰でも読めるようにしようと考えたようです。
「悪りいな、桜木」
「いいってことよ! 礼なら今度昼メシでも奢ってくれたまえ」
「おう、任せろい」
 すまなそうな三井くんに対して、桜木くんは上機嫌です。
 災い転じて福となす。さっきのアクシデントで一気に距離が縮まったようです。二人はようやく着替え始めました。
 しばらくして、着替えた三井くんが荷物の置き場所に迷っていた時のことです。
 ――ゴン、ゴン。
 鈍い金属音に、皆が顔を上げました。
「おまえのロッカーはここだ」
 仏頂面の赤木くんが、あの特等席のロッカー扉を拳で示していました。三井くんは、事態が飲み込めないというように目を瞬かせました。
「ぬ! そこはキャプテン副キャプテン用のトクベツロッカーじゃなかったのか!」
「そう思ってたのか、桜木」
 答える木暮くんの声は笑いながらも湿っていて、桜木くんの瞳は少し揺れました。
「さっさと荷物を入れろ。いつまでも戸締まりできんだろうが」
 赤木くんは戸惑う三井くんに背を向けると、学生机に向かいました。机の中から何か取り出しつつ、照れ隠しのように注意を続けます。
「桜木も着替えたならすぐ帰れ! 明日も早いぞ!」
「へいへい、わーったよゴリ。メガネ君、ミツイ君、お疲れっした!」
 桜木くんはからりとした声で返事をし、三人に気を遣ったのか、素直に部室を出ていきました。
 三井くんはバスケットシューズと膝に着けていたサポーターを片手に私に近寄り、おずおずと扉を開けました。私の中に蛍光灯の光が細く伸びていきます。やがて光は一冊の雑誌を照らし出しました。
 三井くんが息を飲みます。それと同時に、サポーターが床に落ちました。
「……これ」声がわずかに掠れていました。
「悪いな。オレが拾った」
 木暮くんはいつのまにか、三井くんの後ろに立っていました。答える音色は柔らかく、大切なものを包むようでした。
 振り返った三井くんの喉仏が上下しました。
 木暮くんは落ちているサポーターをゆっくりと拾い、三井くんに差し出しました。
「……おかえり」 
 赤木くんは机に向かったまま、背中で二人のやりとりを聞いています。
 三井くんは身じろぎもせず、片手にバッシュを持ったまま、木暮くんの手にあるサポーターを睨んでいました。唇を尖らせ、きつく眉根を寄せているのは、泣くのを堪えているのでしょう。
 赤木くんが立ち上がり、三井くんに近寄ると小さな紙片を突きつけました。それは新しいロッカーのネームプレートでした。油性ペンで力強く〈三井〉と書かれています。
「早く体力つけろ。……早く、追いついてこい」
 赤木くんの言葉に、三井くんの真っ赤な目が細められました。その直後に頬を伝った涙を乱暴に腕で拭い、三井くんは、へっ、と不敵に笑いました。
「…………追いつくだと? オレを誰だと思ってやがる」
「フン」
 赤木くんは鼻で笑いましたが、その奥にははっきりと嬉しさが滲んでいました。木暮くんは眼鏡を外して目尻を拭っています。
 三井くんは自分の荷物を私に収め、扉にあるスリットにネームプレートを嵌めました。その様子を眺めていた木暮くんがふと、悪戯好きの子どものように微笑みました。
「……そうだ、三井」
「なんだよ」
「今日履いてたバッシュ、新品だよな」
「あ? そうだぜ、前のは小さくなってたから――」
 三井くんの返事の途中で、木暮くんは赤木くんとアイコンタクトを交わしました。次の瞬間、二人は三井くんのロッカーに飛びつきました。
「わっ、おい!! 何だよおまえら!!」
「踏ませろっ! 験担ぎだっ!」
「やめろ木暮! 赤木!」
 三井くんは抵抗を試みましたが、力で赤木くんに敵うはずもありません。二人とも靴下とはいえ、哀れなバッシュは床に転がり、思いきり踏みつけられました。
「そうだ! 明日、朝練前に皆にも踏んでもらおう!」
 目を輝かせる木暮くんに三井くんがぎょっとします。
「バカヤロウ、そんなことしたらなあ!」
「どうなると思ってるんだ?」
「ぐっ……それは……」
 赤木くんに凄まれ、三井くんは不満げに口をつぐみました。
「三井、思いっきり踏まれてこいよ。もう二度と怪我しないようにさ」
 木暮くんの声には祈りが込められている。私はそう思いました。
 三井くんはしばし沈黙し、口を真一文字に引き締めると、「わかった」と答えました。彼らの間に、二年ぶりに穏やかな空気が流れました。
 こうしてやっと、――本当にやっと、彼らのロッカーは再び並んだのです。

 ふう……少し喋りすぎてしまいましたね。そろそろこの話も終わりにしましょうか。
 三井くんのバッシュは無事だったのかって?
 それはみなさんのご想像におまかせします。ただ、その日を境に、三井くんが皆とぐっと距離を縮めたことは確かです。

 最後にこれだけお伝えしておきましょう。
 冬のウインターカップに向けてますます気合いの入る三井くんのロッカーですが、両隣はまだ空いています。
 そして今、彼のロッカー扉の内側には、一枚の写真が貼ってあります。
 写真の中では、秋の国体会場で県選抜のユニフォームを着た三井くんと赤木くんが、応援に駆けつけた木暮くんと三人で、きらきらと笑っています。