九月のディープスリー

      1
 
 二学期に入って一週間を過ぎた頃だった。
 木暮公延が放課後に教室で参考書を開いていると、廊下への入り口に、見慣れたツーブロックの癖毛頭が覗いた。
「失礼しまーす」
「おう、宮城。赤木なら調べ物で図書室だぞ」
「いや、ダンナじゃなくて木暮サンに用が」
 宮城の返答に、木暮は目を瞬かせた。
「――俺に?」
「はい。急ですんませんけど、今から練習見に来てくれませんか。……三井サンのことで、ちょっと」
「三井?」思わず訊き返す。宮城は神妙な顔で頷いた。
 三井は木暮と同じく三年生だが、彼は冬の選抜、12月に行われるウインターカップまでは部活を続けると以前から周囲に公言していた。どうやらバスケ推薦での大学進学を狙っている節があるのだが、受験勉強をしなくていいのか、それ以前に留年せず卒業できるのか、木暮はひそかに心配していた。
「分かった。行くよ」
 普段の宮城らしからぬ表情に胸騒ぎを覚えつつ、木暮は席を立った。

 バスケ部を引退した木暮の生活はがらりと変わった。塾に通い、寝る寸前まで勉強に明け暮れている。毎朝のジョギングや、室内でできるハンドリング練習は続けているが、公園でドリブルやシュート練習をする回数はぐっと減った。
 木暮には、〈赤木と同じ大学へ入る〉というひそかな目標があった。大学バスケでも同じチームでプレイできたらどんなに楽しいだろうか。赤木を支え、彼の力を最も引き出せるのは自分だけだという自負もあった。
 そのためには、今より一ランク成績を上げねばならない。後輩たちの練習を見に行ってやりたい気持ちはあったものの、夏休み中は結局、ほとんど顔を出せなかった。
 体育館への道中、階段を下りながら宮城に訊ねる。
「キャプテンには慣れてきたか?」
「なんとかやってますよ。人数が少ねえのがネックですけど」宮城は苦笑を浮かべた。
「桜木が復帰するまでは9人だもんな」
 答えながらしみじみとしてしまう。部員数が50人を超えることもざらにある強豪校を相手に、この夏、湘北バスケ部はたった12人でインターハイ三回戦まで進出したのだ。
「そうなんすよ、練習試合するにも中途半端で。今日は委員会で人数集まらなくって、前半はそれぞれ個人練習させてます」
「そうか。頑張ってるな」
「ま、いろいろと工夫しますよ」
 宮城の返事に木暮は頬を緩めた。宮城をキャプテン、安田を副キャプテンとした新しい湘北バスケ部は、順調に動き出しているようだ。と、
「――おい、宮城」
 先を歩く宮城に木暮は声を上げた。宮城が体育館とは逆の方向に廊下を曲がったからだ。
「行くの、体育館だよな?」
「外から覗いてほしいんすよ」
 なぜ、と口にする前に、宮城は唇の前に人差し指を立てた。
「――気づかれないように見ろってことか?」
「はい。こっそり」
 胸のざわめきが高まる。昇降口で靴を履き替え、校舎に沿って進む頃には、二人とも無言だった。
 しばらく歩き、体育館に到着した。木暮は宮城とともに、鉄扉の影に身を潜めながら中を覗いた。
 向かって右奥のリングでスリーポイントシュートの練習をしている三井の背中が見えた。体育館に出入り口はいくつかあるが、宮城が指定したのは、部員の多くや三井の死角になる場所だった。練習を抜ける前に確認しておいたのだろう。木暮は宮城の抜け目なさに感心した。
 練習を見はじめてすぐ、木暮は目を疑った。
 先ほどからほとんどのシュートが決まっていなかった。サポート役を買って出たのだろう、一年の桑田が、球拾いに右へ左へ走り回っている。
 三井が桑田の返球を受けた。ボールを手に馴染ませるように、三度床へとバウンドさせる。リングを見ながら膝を曲げ、上半身の力を軽く抜く。頭上でボールを構えると、縮んだバネが一気に伸びるように跳躍した。ボールが手から離れ、右手首が返される。
 しかし、またもリングは固い音を響かせた。
 そんな三井を、少し離れた壁際で、流川が水分補給をしながらじっと見ていた。
「――サン。木暮サン」
 背後からの声に我に返る。
 振り返ると宮城が手招きをしていた。反対の手の親指で、運動場の隅にある木陰を指している。木暮は頷き、宮城について移動した。二人で樹の根本に腰を下ろす。
「どうしたんだ、三井」
「うーん……」
 宮城は言葉を探しながら耳のピアスを触っていたが、やがて口を開いた。
「三井サンって調子の波はけっこうあるけど、ミスは引きずらねえし、基本的にメンタル強えでしょ。でもここ最近、シュートの打率がガクッと落ちて立て直せない日があるんすよ」
「……膝は大丈夫なのか?」
 まず思い浮かんだのはそのことだった。宮城は首を横に振った。
「左足かばってるようには見えねーし、オレも流川も、マッチアップしてて違和感ないっす。アヤちゃんにビデオ撮ってもらって、シューティングフォームを見直したりしてるんすけど……」
「安西先生はなんて?」
「それが」木暮の問いに宮城は唇を尖らせた。
「その日に限って先生がいねーんすよ」
「毎回ってことはないだろう」
「マジでいないんすよ」
「ビデオを撮ったんだろ? 先生に見せたらいいじゃないか」
「でしょ? オレもそう言ったんすよ」
 宮城はため息を吐き、癖のある短髪を撫でた。
「三井サンって時々ワケ分かんねー見栄張るでしょ。『先生にみっともない姿見せられるか!』って、テープ渡してくれねーんすよ。ったくガキなんだから」
 三井の様子がありありと目に浮かび、木暮は苦笑した。宮城もわずかに口角を緩めたが、すぐ真剣な顔に戻る。
「木暮サン。安西先生に素直に頼るように、木暮サンからも説得してもらえませんか。赤木のダンナからだと余計ややこしいことになりそうだし」
 そう言うと宮城は頭を下げた。すっかりキャプテンらしくなっている姿に頼もしさを覚える。
「分かった。夜、三井の家に寄ってみるよ」
「受験生なのに、すんません」
 なおも頭を下げる宮城に、木暮は顔の前で手を振った。
「気にするな。――それにしても三井のやつ、インターハイで吹っ切れたと思っていたけどな。……あいつにとってスリーは拠り所だからな……」
「バッカじゃねーの、他にも良いトコいっぱいあるでしょうに。三井サンの課題はどう考えてもスタミナ向上でしょ」
 軽口を叩きながらも、宮城の目は不安を物語っていた。三井にシュート練習を続けさせているのも、それが彼にとって大切なことだと分かっているからだろう。
 二人の間に気づまりな空気が滞留していく。
「――ところで安西先生、今日は?」
「花道の見舞いっす」
 沈黙に負けた木暮が思わず話題を変えると、宮城の表情もやや明るくなった。
「先生、けっこうこまめに行ってくれてありがてえです。部の一年坊もちょくちょく通ってるみてえだし、オレも三井サンも行ける時はなるべく……オレも前、事故で入院してたでしょ。花道や三井サンとは違うけど、少しは気持ち分かるから」
 そのときふいに、木暮の胸にこの夏の記憶がよぎった。
 
 八月下旬、木暮は桜木の見舞いに行った。
 桜木は山王戦が終わるとすぐ、インターハイ会場近くの病院に入院し、しばらくして湘南の病院に転院した。
 見舞いに行こう、とまっさきに言い出したのは三井だった。
 三井は病院の面会時間を調べると、水戸たち、通称『桜木軍団』とも協力し、バスケ部のメンバーを中心に見舞いのシフトを組んだ。だから夏休み中は、毎日のように誰かが桜木の病室を訪れていたはずだ。
 赤木と三井と一緒に病院を訪ねた木暮は、明るく治療に励む桜木の姿に、背筋が伸びる思いだった。木暮を除く全員が大声で話すものだから、病院の人に何度も怒られたが、それも含めてあたたかな時間を過ごした。
 その帰りの出来事だった。
 前日に遅くまで勉強していたこともあり、湘北高校前行きのバスに乗って五分もしないうち、木暮は眠りに落ちていた。
 途中で一度、うとうとしつつ顔を上げた時のことだ。隣の席に座る三井が、ひどく思いつめた表情で窓の外を眺めていたのだ。その横顔は木暮が見たことのないもので、寂しそうにも、悲しそうにも、何かに怒っているようにも見えた。
 声をかけようか迷っているうち、三井がこちらを向く気配があり、とっさに寝たふりをしたのだが、不甲斐ないことにそのまま眠ってしまった。結局、バス停に着く直前に、三井に手荒く起こされた。
 その後、特に変わりない三井の様子に、あれは夢だったのだと思っていた。しかし、そうではなかったとしたら。
 木暮は考える。
 三井はあのとき、何を思っていたのだろう。
 
「どうかしました?」
 心配そうな声に我に返る。宮城が気遣わしげに見つめていて、木暮はとっさに微笑んだ。
「いや、なんでもない」
「……そうすか。じゃあオレ、そろそろ戻ります」
「おお。がんばれよ」
「うす!」
 宮城は律儀に再び一礼すると、身を翻して元来た方へ走っていった。それをしばらく目で追ってから、木暮は息を吐いた。空気を吸いながら天を仰ぐ。
 まだまだ暑い日も多いが、季節は徐々に秋へと向かいつつある。夏休み中に比べると、日没時間も早くなってきた。今ももう、夕日は沈みはじめており、空は茜色から紫色へとグラデーションを見せていた。
 しばらく眺めて目を閉じる。風の音や木の葉のざわめきに混じり、体育館から、ボールの弾む音、バスケットシューズが床を擦る音、部員たちのかけ声が聴こえてくる。今までもこれからも、きっとずっと大好きな音だ。
 ――ほんの少し前まで、自分もあの中にいたのだ。
 そう思った途端、急に切なさが湧き上がった。夏のメンバーでもっと、もっとバスケをしていたかった。待ち続けてようやく手に入れた、宝物のような四ヶ月だった。
 木暮は感傷を振り切るようにあわてて立ち上がると、両手でぱたぱたとズボンの尻を払った。荷物を取りに教室へと向かう。

     2
 
 木暮は家に一度帰って親に断りを入れ、自転車で三井の家へ向かった。向こうからよく電話がかかってくる時間帯を狙ったにも関わらず、三井は留守だった。
「あらあ! 木暮くん、久しぶりねえ!」
 玄関扉を開けた三井の母は、大いに木暮を歓迎した。
「こんばんは、お久しぶりです。三井くんいますか?」
「ごめんねえ、今出かけてるの。最近、遅くまでどこかで練習してるのよ。今日も帰るなりすぐ出てって。しばらく帰らないと思うけど」
「そうですか……練習場所、分かりますか」
「いつも徒歩で出かけるからそんなに遠くないと思うけど。場所までは……」
 困惑する三井の母に、木暮は頭を下げた。
「ありがとうございます。自分で探してみます」
 三井の母は、ごめんね、とすまなそうに微笑んだ。
「いつも寿と仲良くしてくれてありがとうね。そうだ、ちょっと待ってて」
 
 さて、どうしようか。
 三井の母に半ば強引に持たされた紙袋(中には個包装の饅頭や焼菓子がバラバラと入っていた)を自転車の前カゴに載せ、歩道をゆるゆると押しながら考える。歩くたびに、前輪のダイナモライトが低音を立てて回る。
 三井とこの辺りでバスケをして遊んだことはない。でもたしか、宮城が近くの団地に住んでいた……。木暮はきょろきょろと周囲を見回した。宮城の家に電話しよう。きっと、三井がいそうなバスケットコートの目星をつけられるはずだ。
(あった!)
 進行方向にある交差点のさらに先、道路を挟んで向かい側に、公衆電話ボックスの黄緑色の屋根が見えた。
 木暮は急いでペダルに足をかけ、地面を蹴りながらサドルを跨いだ。そのまま立ち漕ぎで進む。自転車はぐんと加速して――脇道から出てきた大柄な男に思い切りぶつかった。
「うわあっ」
 盛大な音を立てて自転車が倒れ、木暮は地面に転がった。
「イタタタ……」
「どこ見てんだコラァ!!」
 身体を起こす間もなくドスの利いた声が降ってくる。うっすらと目を開けると、視界に学ランのズボンと爪先がボロボロのローファーが見えた。身体の芯がすうっと冷える。
 木暮はとっさに腕を盾にして防御態勢を取った。頭か? 腹か? どうか眼鏡が壊れませんように……。
「――木暮?」
「……え?」
「木暮じゃねえか。大丈夫か?」
 相手の思いもよらぬ反応に、恐る恐る頭上を仰ぐ。
 そこには、木暮を心配そうに見下ろす堀田徳男の顔があった。
 
「ゴメンな堀田。痛かったろ」
「こんなの屁でもねえや。木暮こそ怪我はねえか」
 木暮が肘や膝をさすりながら立ち上がっている間に、堀田は自転車を起こしてくれた。
「大丈夫。……あ、よかったら、お詫びと言ってはなんだけど、これ」
 木暮は、足元に落ちていた紙袋――三井の母に持たされたものだ――を拾い、念のため中身を覗き込んだ。
「……ちょっと潰れてるけど……」
 堀田が上体を屈めたので、手を前に伸ばし、袋の中身を見せる。
「いいのか? わりいな」堀田は意外にもあっさり受け取ってくれた。
「もらい物だから。……その代わり、ちょっと訊きたいことがあるんだ」
「俺に?」
「三井がいそうなバスケットコート、知らないか? 家に行ったら留守で、どこかで自主練してるらしいんだ」
 三井と堀田は幼馴染みで、家が近所だと聞いていた。
 堀田はしばらく眼を中空にさまよわせていたが、木暮の真剣な目に何かを感じとったのか、かすかに頷くと顎で方向を示した。
「こっちだ。ついてこい」
 
 堀田の後をついて自転車を押し、表通りから路地へ入った。そのまましばらく見知らぬ道を進む。街灯が次第に減っていく。何度か電柱の表示を読んでみたが、木暮の知らない住所だった。
 接点が三井の応援以外に全くない堀田と、何を話したらいいか分からない。それは堀田も同じようで、二人とも無言のままで歩いた。自転車の車輪がカラカラ回る音がやけに響いて聴こえた。
 あとどれくらい歩くのか、と木暮が訊ねかけたとき、バスケットボールが地面を打つ音が聞こえてきた。
「こんな所にコートが……」思わず声をもらすと、堀田が頷いた。
「ボロいし狭いし、昔は不良の溜まり場になってたから、今でもほとんど人が来ねえ」
「でも、なんで堀田がここを?」
 不良の堀田が〈不良の溜まり場〉というのは不思議な気持ちがしたが、木暮はもちろん何も言わなかった。そのかわりと言ってはなんだが疑問を口にする。
 堀田はしばし躊躇っていたが、やがて口を開いた。
「三っちゃん、時々こっそり、ここで練習してたんだ。俺が知ったのは、バスケ部に復帰する少し前。だけど、たぶん、もっと前から。急に一人でどこかにふらっと消えちまうことがあったから……」
「……そうか……」
 だから三井は、復帰後にもブランクを感じさせない動きができたのか。納得と呆れと切なさがないまぜになり、木暮は息を吐いた。
 コートを囲うフェンスが見えたところで、木暮は道端に自転車を止めた。人が来たと気づかれたくない。用心して、なるべく静かにスタンドを立てる。
「ありがとう、堀田。恩に着るよ」
「おお」
 堀田は紙袋を提げた片手を軽く上げると、来た道を帰っていった。

     3
 
 あちこちに穴が空き、枯れた蔦が絡まっているフェンスへと近寄る。すぐ外に大きめの街灯があるおかげで、この時間帯でも、薄暗くはあるが中が見えた。背丈ほどの植え込みがあったので、隠れるようにしてコートを覗く。
 広さはハーフコートぎりぎりだろう。リングネットの無いゴールポストがひとつと、その反対側にベンチがひとつ。地面は固められているが、ひび割れがそこかしこに走り、ところどころが波打っている。引いてあるラインもかなり薄れているが、フリースローラインだけは、三井がチョークか何かで描き加えたのか、くっきりとしていた。
 三井は相変わらず不調のようだ。ボールが頻繁にリングに弾かれている。
 大きく跳ね返ったボールをキャッチした三井が、ふと動きを止めた。その場で俯いたままじっとしている。
(……ん?)
 どうしたのかと、木暮がフェンスに近づいた時だった。
「くそおっ!!」
 三井がボールを力任せにフェンスへ投げた。音が盛大に弾け、金網がばりばりと揺れる。そしてそれは不運にも、木暮がいる場所のすぐ近くだった。
「うわっ!!」
 反射的に声を上げてしまう。マズいと思ったが遅かった。三井が驚きとバツの悪さが混じった顔でこちらを凝視している。
 跳ね返ったボールが弾み、転がり、やがて止まった。
「……木暮……?」
「よ、よう、三井」しかたなく木暮は片手を上げた。
「何してんだ? そんなトコで……」
 木暮はあたふたしながらも、とっさに嘘を混ぜた。
「あ、あのな、宮城に本と資料を渡しに来たんだ。そのついでに三井の家に寄ったら留守で、帰ろうとしたら偶然、堀田に会ってな。ここにいるんじゃないかって」
 三井の反論が来る前に言葉を重ねる。
「元チームメイトだろ。ついででも会いに来ちゃいけないのか?」
「む……」口ごもった三井は、徳男のやつ余計なことを、と不服そうに呟いた。
「入れよ」
 三井が親指で中を指したので、木暮は今にも外れそうな金網の扉を押した。
 三井はコートの隅にある色褪せたベンチへ向かった。ドサリと腰掛け、背もたれに掛けてあったスポーツタオルで顔と首筋の汗を拭き始める。木暮は少し間を空けて腰掛けた。
 ベンチの脇に転がしてあるスポーツバッグに手を突っ込んだ三井は、ポカリスエットの缶を二本取り出した。一本を木暮に投げて寄こす。
「いいのか?」
「おう」
「……じゃ、遠慮なく」
 いつから入れてあったのか、缶は完全に常温だったが、木暮はありがたく受け取った。
 二人はほぼ同じタイミングでプルタブを起こした。プシュッと空気の抜ける特有の音が辺りに響く。ひと口飲むと、部活中とは違い、甘みを強く感じた。三井は缶を大きく傾け、ゴクゴクと喉を鳴らしている。一気に半分以上を飲んだようだった。
 三井が一息ついたタイミングで、木暮は本題に入った。
「――宮城から聞いたよ」
「ああ!?」
〈宮城から〉と口にした途端、三井は缶を持ったまま勢いよく立ち上がった。その剣幕に思わずのけぞる。
「宮城のヤロー!」
「違うよ三井! 宮城は心配してるんだ、キャプテンとして」
 木暮が釘をさすと、三井はぐぬぬと唸った。
「……分かってらい」
 渋い顔のままでぐいと缶を煽る。口を手の甲で拭い、深く息を吐いた。
「……困るんだよ、こんなんじゃ」
「だからって、ヤケで練習しても意味ないだろう。ボールにまで八つ当たりして」
「う……そうだけどよ……」三井は気まずそうに目を伏せた。
 木暮は腹から息を吸うと、缶をベンチに置いた。
 ――言うなら今だ。
「なあ、三井」
 木暮は立ち上がり、ベンチの前で三井と向かい合った。
「あ?」
 声に真剣さを感じとったのか、三井の返事は戸惑いと警戒が混ざったものだった。わずかに圧を感じつつも、木暮は正面から三井を見返した。
「嫉妬してるんじゃないか、桜木に」
「……!!」
 三井が息を詰めたのが分かった。奥歯を強く噛んだのか、えらの辺りが盛り上がる。
「今日も安西先生、桜木の見舞いに行ってたんだろ? もしかしてその前もじゃないか? その前も」
 ペコッと缶が潰れる音がして、木暮は言葉を止めた。
 三井は形が歪んだ缶をベンチへ置くと、動揺をごまかすように鼻で笑った。
「はっ、笑わせんな! なんで俺が桜木に嫉妬しなきゃなんねえんだよ」
 口角が一気に下がり、眉根が寄る。鋭い眼光が木暮へと注がれた。その視線をまっすぐ受け止めながら、木暮は静かに応えた。
「安西先生、三井の見舞いに行かなかったこと、ずいぶん悔やんでたよ。だから、今回はこまめに通ってるんだと思う」
 瞳が揺れたかと思うと、三井はふいと顔をそむけた。横顔に影が落ち、表情が読み取れなくなる。
 気づけば言葉が口を突いていた。
「ごめんな」
 三井の肩がピクリと動いた。
「……なんで木暮が謝んだよ」
 さっき水分補給をしたはずなのに、喉の乾きを感じた。木暮は唾を飲み込むと、再び口を開いた。
「……練習に来た三井がまた倒れて、入院した時……あの時、断られても、しつこく見舞いに行けばよかった。三井が退院した後、嫌がられても、学校で声をかければよかった。むりやりにでも、部活に引っぱっていけば……よかったのに、って……」
 三井が過去を後悔する姿を見るたびに、木暮の中にも沈殿していく気持ちがあった。
 言葉と一緒に熱い塊がせり上がってきて、視界がぼやけ出す。木暮は慌てて眼鏡を外すと目を擦った。
「……後悔してた。ずっと。ごめん」
 三井は何も答えない。街灯に虫がぶつかっているのか、ジジジッという音が断続的に聴こえた。
 木暮は肩を落とした。また涙が出そうになり、スニーカーのつま先を睨みつける。
 ――言わなければよかった。こんなの、俺が勝手に楽になりたかっただけじゃないか。
「……膝、怪我して」
 そのとき、絞り出すような声がした。
 木暮は眼鏡をかけ直し、視線を前方に向けた。三井の身体の脇で、固く握られた両拳が震えている。
「治りかけてたのに、無理して、手術することになって」言葉を切り、苦しそうに息を吸う。
 心配になるが、顔を上げられなかった。三井は今の状態を見られたくないのではないか、そう思ったからだ。
 三井のこんな声を聴いたのは、彼がバスケ部を潰しに来た時以来だった。思えばあの時も、三井は散々追いつめられてやっと自分の本心に気がつき、口にすることができたのだ。
 バスケットや周囲に対しては器用なくせに、自身に対してはとことん不器用。それが、木暮から見た三井寿という人間だった。
「もうバスケできねーかも、とか。なんで俺だけ、とか。一人でベッドにいると、悪い考えばっかり浮かんで」気持ちを立て直すためか、一度息を吐く。
「ケガする前は、そういうとき、体育館でドリブル練とかシュート練してたんだよ。ひたすら体動かして、気づいたら、すっきりしててよ」
「わかるよ」木暮は心から答えた。木暮にも同じ経験が数え切れないほどあった。いつのまにかバスケットが、生きる上での心の支えになっている。
「だけど、それもできねえし。余計イライラして、悔しくて、眠れなくて。そのうち、ボールも、飾ってた写真も見たくなくなって……」
 三井は、へへ、と小さく笑ったが、木暮には悲鳴のように聞こえた。
「桜木にはそういう想い、してほしくねーだろ。なのによ…………ダセえよな。ガキみてえ」
「そんなことない!」
 気づけば木暮は大声を上げていた。堪らずに顔を上げる。驚いている三井の目の奥を強く見つめた。
「そんなことない。――それだけ辛かったんだろ。偉いよ、三井は」
 三井の両目がみるみるうちに潤み、顔が歪んだ。上半身を丸めて下を向く。ぐ、とも、う、ともつかない声が漏れたかと思うと、肩が大きく揺れた。
 木暮は三井の脇に寄り、背中に手を置いた。汗でぐっしょりと湿ったTシャツ越しに、強い震えが伝わってきた。嗚咽とともに膨らんではしぼむ三井の背を、波が緩やかになり凪が訪れるまで、木暮はさすり続けた。

     4
 
 翌日の放課後、課外授業を終えた木暮は、そわそわしながら体育館に向かった。
 体育館に近づくにつれ、手のひらに汗が滲んでくる。緊張を抑えて鉄扉から中を覗くと、コートを使った練習の最中だった。入り口近くにいた彩子と晴子がいち早く気づき、声をかけてくれる。
「木暮先輩、お久しぶりです!」
「久しぶり」
 壁際で待機している安田、潮崎、桑田がそれを見て、ちゅーす! と声を上げた。
「お兄ちゃんは?」と晴子が訊く。
「赤木も課外授業。あの先生いつも長引くんだ」
 木暮はコートを走り回る部員達を眺めた。
「今やってるの、オールコートの3対2?」
「はい、三井先輩と流川対、他の部員のローテーションで。『選手層が薄いなんてこれ以上言わせねえ!』ってリョータが張り切ってて」彩子がハキハキと答える。
 話題の主である宮城はというと、頭にスポーツタオルを巻いてコート上にいた。審判役をしながらも声かけに余念がない。
「カクっ、流川にビビんな、プレッシャーかけろ! 石井も流川につけ、シリンダーきっちり意識! 佐々岡! 三井サンそろそろバテてきてっから、びったりマークして潰しちまえっ!」
「うるせー、これしきでバテっかよ! 流川、パス!」
 声と同時にボールが鋭く飛んだ。緩急をつけた機敏なフットワークで佐々岡を振り切った三井は、パスを受けるやいなや段階を経ずにすぐさまシュート体勢に入る。そのスピードに相手チームは反応できない。
 三井はスリーポイントラインから1メートル以上離れた地点で両足を踏み切った。
「マジかよ」潮崎が思わず声を上げた。どうした三井、と木暮も思う。もしかしたら、三井自身もそう思っていたかもしれない。
 シューターとしての本能的な感覚で、三井は真上ではなく、斜め前方へと跳んでいた。これで通常よりもさらに遠くへ球を運べる。無駄のないフォームはそこだけ重力が減っているかのように軽やかで、自然に目が引き寄せられる。
 球が手から離れ、右手首が滑らかに返される。ボールは高く美しい弧を描いた。あらかじめ入ることが運命づけられているかのように、リングの中心へまっすぐに吸い込まれていく。
 一拍の後、リングネットとボールが擦れる小気味よい音が空気を震わせた。
 三井はというと、右手をシュート直後の形で上げたまま、瞬きすることも忘れ、ぽかんと口を開けている。
「やったーーっ!!」
 次の瞬間、体育館に歓声が溢れた。
「先輩、やったっスね」
 流川を始めとして、敵味方に関係なく部員たちが駆け寄る。三井を囲み、ある者はハイタッチを求め、ある者は親しみを込めて肩や背中を小突いていく。
「なんでおまえらも喜んでんだよ! 敵だろーが!」
「いいじゃないすか!」
 一番後にやってきた宮城が三井の尻をはたいた。
「ったくよー、全員あめーよ! 本気で来いよ本気で!」
 口とは裏腹に歯を見せて笑う三井に、昨日の陰りは全く感じられない。そのことも嬉しくて、木暮は胸の前でささやかなガッツポーズを決めた。
「おー! 来てたのか木暮ー!」
 木暮を見つけた三井が、コート上からぶんぶんと手を振った。
 
「ありがとな、木暮」
 休憩時間に入ると、三井はまっさきに木暮の元へ走ってきた。
「なんか、いろいろ吹っ切れたわ」
「そうか」
「また借りを作っちまったな」三井は照れ臭そうに顎の傷跡を触っている。
「なるべく良い先輩になろうとしてんだけどな。さっきのスリーで、周りに気ィ使わせてたんだって分かったわ。俺もまだまだだな」
「三井……大人になったなあ」
「は? おまえがそれを言うかあ!」
 思わずしみじみと呟くと、三井が声を荒らげた。木暮は数秒きょとんとし、それから大きく破顔する。
「覚えてたのか」
「忘れるかっ、馬鹿ヤロウ!」
 三井は苦々しくそっぽを向いた。不良仲間を引き連れてバスケ部を襲撃した際、木暮に言われた『大人になれよ』というひと言をずっと覚えていたらしい。一連の記憶も連動して蘇ったのか、耳が赤く染まっている。
「……大体な」三井はジロリと横目で木暮を見た。
「あの頃はともかく、俺は元々そんなに子どもじゃねーぞ」
 木暮はその答えに吹き出した。
「なんだよ木暮!」
「本気で言ってるのか」
「当たり前だ!」
「三井、前から思ってたけどな、いつも昔を美化しすぎだ。あの頃の三井は自己中で傍若無人だったよ」
「あぁ!? そんな訳ないだろ!」
「あるよ。あるある」
「信じねーぞ俺は!」
「あははは」
 木暮は笑いながら脇腹を押さえた。
 親切で仲間思いで、周りにはいつも人が集まって。すぐムキになるのと調子に乗るのは相変わらずだけど、今の方がずっと大人だし、ずっと良いやつだ。
 木暮は続けて思う。でもな、三井。自分の気持ちに蓋をするのは、大人とは言わないぞ。おまえの良さを、自分自身にも向けてやれよ。
「笑うなよ木暮!」
 何度も目尻を拭う木暮に、三井は唇を尖らせ不貞腐れている。
 二人の様子に気づいた宮城が、審判用の笛をくるくると振り回しながら近寄ってきた。三井をからかうチャンスだと思ったのだろう、既に顔がニヤついている。
「三井サーン。今度は何やらかしたんすか」
「あぁ? なんにもしてねーよ!」
「受験生をあんまり困らせちゃダメっすよ」
「困らせてねえ! それに言っとくが俺も受験生だからな!」
「えっそうなの? てっきり諦めたのかと……」
「おま……おい宮城!」
「うわ本気で蹴りやがった! テクニカルファウル!」
「は!? 休憩中はノーカンだろーが!」
「痛ってえ! テクニカルファウル! 退場! 三井サン退場!」
 騒ぎはじめた二人を見ながら、木暮はこうも思う。
 ――三井。おまえも相当、バスケの神様に愛されてるんだからな。

 この日三井は、山王戦以来の高打率でシュートを決めた。